「推し、燃ゆ」 宇佐見りん
河出書房新社 2020
推しとは
「推し」は「一推しメンバー」を略した
「推しメン」をさらに省略したものらしい。
なんとなくはわかっていたが、「推し」という言葉に慣れてしまってグループ内の一推しであるということは意識してなかった。私はソロの歌手に対して「推し」と使えると思っていた。
主人公はファンの中のファン
主人公の女子高生は作中であるアイドルグループの男性を推している。これは私が少し好きという意味で使う推しとは領域が違う。「推し」に関する全てを知っているのだ。プロフィールはもちろん、
あらゆるメディアでの露出を全て押さえるという完璧さ。それを独自にまとめ上げる。なるほど、
確かに「推している」。全くもって反論の余地がない。これこそである。そう思う一方で、推しとは
それほどで強い想いを持ってなくてもいいはずだとも思う。メンバー内で一番好きな人が「推し」だからだ。その推しの強弱は関係ないはず。と思う
さらにもう一方で、でもやっぱりこの主人公ぐらいでなければ「推し」とは言えないという気もする。同じCDを何十枚と買うのは普通に考えておかしい。身内がCDを出してもそんなには買わない。そう思いつつも、主人公を羨ましく思う。
この主人公は会場に10万人100万人ファンがいようとその中で誰よりも自分が「推し」を推していていると自信を持って言えるのだ。おそらく彼女はそんなことに興味ないだろうけど、「推し」と「推し」を推す自分それだけでいいんだろうけども。(それもまたかっこいい)
ファンになるための質問
私は○○のファンだと公言することに抵抗感がある。リード曲しか知らないアーティストの、全ての映画を見てもいない監督の、数作品しか読んでない作家のファンだということに恐ろしく後ろめたさ、恥ずかしさを感じる。そんなんでファンとは、
好きとは、推してるとは言えないだろ。という気持ちになる。
私の一つの基準はそのアーティストに面と向かって「ファンです」と自信を持って言えるかどうかである。「詳しいね」なんて言ってもらえれば天にも昇る思いだ。たとえば、好きな映画監督に「俺の作品全部見てくれたの?」と聞かれて、相手の目を見て「はい!」と言えなければファンではないという
判断基準だ。私はその質問のハードルが自分の中で勝手に上がりに上がった結果、何に対してもファンと言えなくなっている今がある。
主人公はどんな質問が来ても必ず「はい」と言えるだろう。それでこそファンだ。
ファンになるための見えない資格
「ファンになるための質問」の考え方に納得できない人もいるだろう。「そんなものはない。ファンはその人がファンと思ったらファンだ!その人が推してると言ったら推してるんだ」その考えは正しいが、間違っていると私は思う。
例えば、自分は歌手のaikoさんのファンだ。
もし友達から「私もaiko好きだよ」と言われたら、もちろんテンションが上がる。しかし、そのあとに「クワガタいいよね」と言われたらどうだ。
「ちょっと待て、」は不可避だ。
「あなたと私を一緒にするな」という気持ちを流石に抑えがたい。その状況でなお、他人とは比較しないこの人もファンなのだという人は仏の領域である。
他の例も考えてもらいたい。
「やっぱAKBは前田敦子単推しだわ」
「引退早過ぎたよな」
「えっ!?いつしたの?」
「私、米津玄師さんのファンなんだ」
「何の曲が好きなの?」
「みかん」
「新海誠監督のファンでさ」
「君の名はいいよね」
「私はラピュタかな」
「俺サッカー大好きなんだよ」
「どこのファンなの?」
「巨人に決まってるじゃん」
誰でもファンになれるということは彼らもファンということになる。
私は認めない。認めたくない。4人目どういうやつなんだ。もはや狂気を感じる。
やはりファンであること、誰かを推しているということには何か見えない資格があるように思う。
そう願う。
主人公を目指して
たとえ上の例のような私がファンと認めたくないような人たちでさえも主人公は気にする事はないのだ。自分は自分で推しが尊い。あまりにかっこいい。主人公はとにかくかっこよく映った。他の人などどーでもよく実直に「推し」を推す。師匠である。ファンとしてだけでなく、真剣に打ち込んでいる姿に美しさを感じる。どんなことに対してでも全力、本気であることがかっこいい。自分も主人公のように、好きなことに全力で打ち込もう。「推し」からどれほどの難問が来ても、目を見て「はい」と言えるようになろう。自分が好きなものを「好きだ。」「ファンだ。」「推している。」と声高に宣言しようと思う。でも「クワガタ」は認めない。
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